共同体のあり方ってさ

格差社会を生きる―男と女の新ジェンダー論
先日の本。
やべえ
日本の労働のあり方って昔から特殊だったんじゃないかなと思い始めた・・・・
私は外国に関して大変に無知なので良く分かりませんが
日本って昔から「奉公」とか「身売り」とか
「住み込み」とか「徒弟」とか
労働単位が人生そのものの生活単位になってる傾向があるような気がする・・・


その日本的労働の象徴たる官僚として働く友人は
休日までをレクリエーションに飲み込まれて、あまり飲み会に顔を出さなくなりました。


それって見方を変えれば利害関係を同じくする者を公私まとめて共同体の中に囲い込んでるってわけで
ぶっちゃけ私は昨今の社員寮の復活とかをあまりよろしいものとして見てない。きもちわるい。
今でさえ正社員と派遣との軋轢が問題視されてて
企業の内部留保が社会に還元されてないのがまずいっていってるのに
そんなことしたら益々人間が「営利」を機軸に結びついていくんじゃないか。


昔の生活見るとさ
江戸時代は句会やら変り咲き朝顔の品評会とか
明治だと柳田國男の「木曜会」みたいに、違う業種の人たちが利害関係を抜きに交流する場って結構あったんじゃないかと思う。
そこでは当然業種が違う分、現在で言うM&Aとかそういう直接的営利に結びつくことの薄いコネとか友情とか情報交換があったんだろうなと推測。


そう思うと、
この著書にもあるけど、現代社会の労働時間の長さは異常。
ってか生活文化の単一化が異常。


昨日飲み会やって思ったけど、正直ただ話して遊ぶだけなら、業種は違う人たちの方が断然いい。
ビジネスに直結するかそうでないかで、ストレスの溜まり方とか励ましに対する耳の貸し方が半端なく違う。
つーかそういう全然関係ない人たちというガス抜きの場がないと正直やってられない。




自営業とか零細企業の多い地方で育った私は
巨大共同体に駒として飲み込まれた企業生活にはスゲー気持ち悪さを覚える。
巨大な木立のように周りを取り囲む同僚たちと
否応なしに降りかかってくる爆撃のような情報と人の噂から逃れて
フリーに道を歩ける身分って、身軽でとてもいいと思うの。
静かに物思いにふける時間が少しほしい。


少し生き方を変えさえすれば
ただ飲んで騒ぐだけの職場のノリから逃れて
自分が誰といつどうやってコミュニケーションをとっていくかっていう選択肢が劇的に増えるんじゃないかと思う。
人生の選択肢は、いつも多く持っていたい。
知識は、自発的・選択的に習得したい。
軸は変らず、でも見方は変化に富んでいたい。
友達の部屋と自分の部屋に同じブランドの全く同じ規格のテーブルがある生活って、なんかおかしくないか?
同じものを見て全く同じことを感じる生活って、なんか意味があるのか?
私はそれはなんか・・・つらい。


等間隔に並んだ同じ規格の街路樹よりも、自然に伸びた樹の中からお気に入りの一本を見つけたい。
どこに行っても同じ味のするレストランよりも、一軒一軒だしの違ううどん屋さんに入りたい。
たくさん並んだぬいぐるみの中から、一番顔のバランスがかわいいものを選びたい。



規格が違って何が悪いの?
観光地のお土産屋さんに地元の駅ビルのテナントと同じ製品が並んでるのを見物して何が面白いの?



やっぱ田舎に帰ろうかな。とか思うのでした。
工業製品の生産ラインを見ていると頭が痛くなる。
消耗品はいい。
ただ、生活の全てがそれになるときっと私は発狂する。
おうちでテレビを見ながらミシンをかけて、ひとつだけのブックカバーを作りたいの。






労働問題、本気で着手したくなってきました。
何をどうすればいいのか
どうしたら何になれるのか
何かの役に立つのか
喰っていけるのか
全然何も分かってないけど


・・・考えたらうちの父親は、私の歳ではまだまだ大学で留年しまくってバイト三昧で機械いじくり回して遊んでたんだよな。
と自分に言い聞かせて
これからまた何か貯め始めようと思うよ。