大衆と個人と

個人と大衆
形而上と形而下
純文学と大衆文学
文化と経済
ナショナリズムグローバリズム
個人商店とチェーン店
家庭と社会
私服と制服


以上、対立の縮図。



社会人になって、今まで見ていなかった社会の側面が沢山見えてきてます。
今一番苦労しているのは、志向性もバックグラウンドも異なる多数の人間とうまくやっていくこと。
だって、全く性質の違う人間なんて受け入れられないじゃないか普通。


私は第一志望に落ちたショックで自暴自棄になり。
罷り間違って嗜好性が正反対に位置する企業に入ってしまったおかげで、今全くエライ目に遭っていますよ。
周りの人間が全員理解できない。
なんというか、「コミュニケーションをした上で、共感することができない」のではなくて、「根本的にコミュニケーションをとることが不可能」(爆)
使ってる言語がバーバルコミュニケーション・ノンバーバルコミュニケーション共に全く違う・・・


とりあえず奴らの会話方法って、全てが「ノリ」なんです。
対して我々が今まで愛してきた会話法を名づけるならば「論理の妥当性に対する共鳴」とでも表現した方が良さそう。
だって、すごいの。
会社の人間とは2ヶ月半も一緒に居て、内向的な話をしたことがほとんどない。
そしてフットサルだのサッカーだのと、ひたすらノンバーバルコミュニケーションに終始した集会に参加を強制される(や、私だけ行ってないけど)


フットサルとか
サッカーとか野球とか
私嫌いなんです。
だって「どうでもいい」んだもん!!!




今まで大学の友達とバカみたいに仲良くなれたのは、きっと真理の追究にひた走っていたからなんだなと思うんです。
というのも、歴史学を学ぶ人間の目標は、何か1つの事象に対して、真理性のある観察を引き出すことだと思うんです。


だからその観察眼が鋭く、誰もが頷ける真理に近ければ近い観察を引き出せるほど尊敬されるし、評価される。
そして、場の人間がその1つの観察に共感し、共有することで連帯感を得る。
いわば、「分かる奴」と「分からない奴」に分けて外部を切り離していくことで連帯する方法。
茶の湯俳諧、江戸の洒落の例をはじめ、多分これが本来文化人がとってきた連帯方法。
そして数々の権力者がとってきたコミュニケーション方法はみんなこれ。
エスプリってやつです。


対してさ。
スポーツってルールさえ知ってれば別に言葉とか要らないんですよ。
どんなに異文化の人間でも、同じ場の盛り上がりを通じて一体感を得るという意味で、コミュニケーションしてしまうことが可能。


まあそれってある意味凄いことなのかもしれませんけど
私としてはこれってものすごい暴力だと思うんですわ。


正直、スポーツって一種の祭りみたいなものだと思うんです。
相手がどんな人間であろうとも、場の熱狂で一体感を共有してしまえば、相手の全てを分かった気に、許す気になってしまうという魔術。


・・・・・でも、それで相手の価値観って測れるの?
何で測らないの?
何で価値観も分からないような奴と友達になんてなれるの?


人間理解に価値観の相違なんて関係ないよ!というなら、
じゃあ果たしてそこに文化ってあるの?
論理や哲学の個性もないと思うんだけど。


ひたすら普遍性があるだけのツールなんて危険で、無い方がいいと私は思う。
宗教みたいだ。




昨今、世界から文化が急速に消失してる気がしてならない。
今日は大学の友達と会って、古本屋が潰れてる話をしましたが。
それって要は、インテリ層の可処分所得と可処分時間が減ってるせいだと思うんです。
たとえば他に出版業界の様相を見てみても、吉川弘文館みたいな純学術系の出版社は縮小・衰退を繰り返して瀕死だけど、集英社小学館講談社みたいな大衆文化に媚びることに成功してる奴らはどんどん業績伸ばしてるし。
歴史系出版だけにシフトして見てみても、山川みたいに受験市場という大衆市場への進出に成功したところは生き残って、やっぱり純学術を貫いた吉川は一人負けだし。
文学で飯は食っていけないの見本ですね。


でも昔はこれでやっていけてたんですよね・・・。
ということはつまり、昔はインテリ層が封建制ヒエラルキーの頂点に位置していたからなんだろうと思う。
確かに、昔帝大卒といえば間違いなく官庁やら銀行やら総合商社やらと、明らかに高給の待遇で過ごしてたはず。更にその昔なんて、権力者が芸術擁護してたし。
それが、今や東大卒がコンビニ店員やってる時代だし。
パトロンが居なくなれば、文化が衰退するのって当然だよね。
きっとそうやって社会の経済を握る主力層の割合において文化系・体育会系が逆転してきたのと連動してこんな風になってきたんじゃないかと思う。


封建制が廃れて、やれ平等のユニバーサルのとやたらと世界や個人を均一化しようとするのはいいけど、それって本当に意味あるの?とか思う。
じゃあ何で、わざわざ社会科の授業で、それぞれの国の文化の特色を習ったの?何でわざわざ海外旅行行くの?
異文化の面白さに触れるためじゃないの?
正直、このまま欧米伝来の強制力でグローバル化を進めていったら、結果的に文化の消失を招くような気がするよ・・・


私がユニバーサルデザインを嫌いなのは、フットサル大会で人を分かったような気になっている体育会の強制力が働いてる気がするからなんだよな。
それってどうもうさんくさいというか、軽薄というか。こだわりがなさすぎる。個性って何?
だってそんなに誰でも受け入れられるなら、お前は一体誰と結婚するつもりなの?とか思う。誰でもいいことになるんですけど。


大学の友達と会って思うことは、そういうお手軽な平等思想で得た友人関係は環境変化によって簡単に切れ得るけど、文化的紐帯で結ばれた人間は、物質的距離や環境が変わろうとも絶対に切れない。断定する。


自分を曲げてこだわりを捨てて、ただ偶然居合わせただけの周りの人間とその時々にうまくやっていければそれでいいのか。
それとも自分の生まれた環境、生まれた風土に誇りを持って、自分が長年温めてきた価値観を本当に共有できる人物と確かな紐帯を結ぶのが良いのか。


武士道の孤高と商人の卑屈さの境界は、自分を譲るか譲らないかというところだと思う。
なんか考えたら
士農工商って言葉が全てを表してますね。つまり封建制社会においては文化のある奴とない奴という衆愚論で判断されていて、自分というものに対してこだわりのない商人は一番見下げられてたってことだ。



たしかに文化的嗜好すなわち衆愚論というのは、突き詰めれば個人主義に走りすぎて三島由紀夫のような孤独を招くけど。そして排他的な驕りを招くけど。
でも卑屈に世の中渡ってきた商人ですら、財力を手にすれば文化に走った―すなわち個性を求めた―んだから、やっぱ文化って、「個」という精神の拠り所となる何かであることは確かなんだと思う。


それに対して場の連帯感を追求する体育会の精神というのは、悪いがどうにも動物的なところに行き着く気がしてならない・・・
とりあえず人間なら何でもいいのか。お前らは。


多分私が昔から平安時代やら江戸時代やら戦国時代やらに憧れるという懐古志向を持ってきたのは、そういう孤高の精神が尊ばれていたことを本能的に嗅ぎ付けていたからなんじゃないかなと思う。



それで、うちの会社はその体育会系の力がどうも間違った方向に使われていて、どうにもやりすぎじゃないかと思う。
大切なのは摩擦の軽減であって、完全なる一体化じゃないだろと。
イラつくんだよ!!!
それが唯一素晴らしいものと評価されている社会に身を置くことが苦痛で仕方ない。


バランスって
どうやってとったらいいんだろうね。
一体どこに落ち着くべきなんでしょうね。
ちょっとあまりに環境が違いすぎて
混乱しすぎて
自分の位置を見失っていますよ。


こういう会社が収益を上げる世界って、どうなんだろう。
なんか余計に世の中が住み難くなる気がしてくるから、自分の会社の業績アップにいまいち心からの貢献ができなそう。もうこれ以上伸びなくていいですうちの会社(爆)
世の中これからどうなっていくんでしょうね。
バカばっかりの世界なんて私はやだな。滅びればいいのに。