非定型

三浦朱門の本を読んでおります
うつに関するエッセイ?
みたいなの


パラ読みしたところ宗教史に関しても良くまとまってる本。
面白いから勉強かねてノートにざっと流れをメモしながら読もうと思ってるから、まだ熟読はしてないんだけど。


そこに登場するおくさま(曽野綾子)を作中で「曽野」と呼んでるところにすごく知識階級同士の恋愛の形をみた気がして面白かった。
だって言うか?ふつう?
一般的な水準だったらたぶん「妻」とか「家内」とか言うよ。
幸運にしてそういう伴侶に巡り合えた人って幸福だよねーって思う。


人を苗字(しかも旧姓)で呼び捨てるというのは、その人間の「個」、特に美的・知的価値観に注視した関係において多く発生するように思う。
ただの置換可能な「飲み仲間」とか「遊び仲間」とかじゃなくて。
他者の人格を自己と明確に線引きした上で、その人の人格に対して敬意を払う場合において使われる呼称だと思ってる。
交換不可能な唯一の人格として。
親しい大学の友達って割とそう。


実力が同じで、さらに自他の明確な線引きができていて自分が揺らぐことがなくて
吸収合併されたり泥沼化したりする心配がないからこそ、
余計な遠慮も打算もなしに寄り掛かれるしつきあえる部分ってある。


個として固まった強さ。
どんなに一緒に居ても決して芯まで色が混ざらない安心感。


なんかそういう非定型の強さを持った人格じゃないと友達になれない。
芯まで混ざって腐りたくない。
身に纏ったセロファンを剥がされて、折角溜めた自分の色が流れ出て混ざり濁っていくのがやるせない


20数年の人生を否定して定型量産型の人間に作り変えないでください。